ゼロの使い魔 ハルケギニア南船北竜
挿話その十六「千客万来」




 その日の午後になって、マザリーニは宰相府の執務室で自ら出した手紙を再び受け取っていた。
 昨夜、外務卿より知らされたアルビオンの新しい在外公館開設に関して、セルフィーユ子爵に幾つかの事柄について聞いておくべき必要があったのだ。ところが、手紙を預けた小者が半刻ほどで執務室に戻ってきたのである。
「宰相閣下、セルフィーユ子爵は昨日ラ・ロシェールにて逮捕され、今は西の塔におられるそうです。
 ……この手紙はいかがしましょう?」
 小者は預けられた手紙をマザリーニへと差し出した。
 そうか、セルフィーユ子爵は王城にいるのか、ならば直接……とはならない。西の塔は貴人の罪人を収監する場所であり、手紙を届けても入り口で追い返されるか、痛くもない腹を探られるのが関の山だ。
「セルフィーユ子爵、貴殿今度は何に巻き込まれたのだ……?」
 時々巻き込んでいる側の自分が言うことではないかと嘆息一つであれやこれやを胸に納めたマザリーニは、その件について人を遣わし大至急調べるようにと命じ、小者の退出を許した。
 次いでやれやれと身支度を整え、執務室を後にする。
 マザリーニを悩ませている案件は、他にも山とあるのだ。

 小一時間ほどして、マザリーニは外務卿の元から帰ってきた。
 議論は深く長く及んだが、結果としてはマザリーニが理を解いた、あるいは外務卿と二人して知恵を絞ったというべきか。
 貴族院より提出された『アルビオン王国への正式な抗議』とやらは、外務卿が内側に押しとどめてくれるだろう。
 既に執務室には、セルフィーユ子爵の最近の動向についての簡単な資料が届いていた。もうしばらく待てば、更に詳しいものが届くはずだ。
「……」
 紙片を読み進めるマザリーニの顔は、やがて険しくなっていった。
 アンリエッタ姫が病を得たと称してお忍びに出ていたことは、マリアンヌを通してマザリーニにも知らされていた。国内の離宮のどれかであろうと影ながら噂が出る程度には、王宮に勤める者ならばアンリエッタの不在は皆知っていたはずだ。『公然の秘密』というものである。
 だが、その行き先がアルビオンであることはマザリーニにも知らされておらず、その護衛兼用の足がセルフィーユ子爵の持ち船であり、また帰路に於いて空賊に襲われたことまでは流石に予想の外であった。
 先の外務卿との会談の当初、この度のアンリエッタ姫殿下の危機に関して、アルビオン王国へと通達する抗議について意見を伺いたいなどと言われ、いきなり何を言い出すのかと首を捻ったほどである。マザリーニと同じく先王崩御以前からその職にあり、外務経験も長かった外務卿自身が他国に恥を晒すなど以ての外と抗議そのものに懐疑的な意見を持っていたため、貴族院への反対意見としてどうまとめるかが会談の焦点となったのは幸いだった。
 まだ会っては居ないが、一昨日、アンリエッタが無事に城に戻ってきたことは確認している。同時にその日、貴族院が緊急の召集をかけていたのはこの件に繋がっていたかと、マザリーニは臍を噛んだ。貴族同士の足の引き合いなどいつものことと、大して気に懸けていなかったのだ。
 しかし、それが王政府の足を引くほどの影響を持つとなると話は別である。
 逮捕の命令が発せられたのはセルフィーユ子爵だけではなかったのである。ロサイス航路で空賊討伐にあたっていた空海軍のシャティヨン提督とアルビオン駐在の大使クーテロ男爵の名も、資料には記されていた。罪状は三人揃って、職務の怠慢により姫殿下を危険にさらした罪とされている。シャティヨン提督も今朝収監されたようだが、アルビオンにいたクーテロ男爵はまだ帰国していない。ここトリスタニアからアルビオンの王都ロンディニウムまでは、高速船を急がせても往復一週間はかかる。
 三者三様に影響も大きいが、マザリーニにとっては特にクーテロ男爵の収監が一番の問題だった。
 対外的にアンリエッタ姫の不在とアルビオン行きを『認めた』ことになり、更には王女が襲われたというトリステインにとって不名誉な事実を、事実として公に『認めた』ことになるのだ。
 何故に『公然の秘密』が『公然の秘密』たるのか、貴族院の議員らは理解していないのだろうか。……あるいは、それを無視し得るだけの背景、例えば利益や役得があるのだろうか。
 表向き無かったことにさえしてしまえば後は時間と立ち回りでどうとでも出来るのだが、早急に落としどころを探り、各方面に傷口が広がる前に塗り薬や包帯で塞いでしまわなくてはならない。
「宰相閣下、ラ・ヴァリエール公爵閣下が登城され、閣下に面会を申し込んで来られたのですが……」
 若干おびえた様子の官吏がそれを告げに来たところで、マザリーニは思索を打ち切った。
 公爵は件のセルフィーユ子爵にとり義父に当たる人物だ。知らせを聞きつけ、急遽領地から飛んできたに違いない。
 何某かの情報をもたらしてくれないものかと僅かながらに期待を抱きながら、マザリーニは面会の了承と本日の予定一切を白紙にする旨を官吏に申しつけ、人払いを告げた。

 ほどなく現れた公爵は、挨拶もそこそこにマザリーニへと書状を差し出した。いつにも増して機嫌は悪そうだが、そこは流しておく。義息の逮捕と聞いて、機嫌が良かろう筈もない。
「昨夜遅くにリシャール……セルフィーユ子爵の竜が家臣のみを乗せ我が家に舞い降りてな、それが届いた。
 中は見ておらぬが、おそらくは私宛の一通と同じ内容のものと思う」
「失礼いたしますぞ」
 セルフィーユ子爵よりマザリーニに宛てられた手紙は、逮捕への経緯、空賊の背後に何かある可能性、そして無罪の論拠となるかもしれないマリアンヌからの手紙の存在を知らせる内容であった。可能ならば公正な裁判になって欲しいものですと控えめな締めくくられ方ではあったが、助力を請われているのは間違いないらしい。
 肩を持てと言われては対処に困るが、公正な裁判をと求められれば尽力も吝かではない。元よりマザリーニの望むところである。
「公爵、貴殿が『アン・ド・カペー』殿のアルビオン行きを知られたのは何時であられようか?」
「昨夜だ。
 娘夫婦がアルビオンに旅行していたことは、出発前から知っていたがな」
「では、セルフィーユ子爵と連座して、空海軍のシャティヨン提督と駐アルビオン大使のクーテロ男爵が逮捕された件はご存じですかな?」
「……たった今知ったわ」
 公爵の片眼鏡をかけた方の眉が、ぴくりと動いた。
「どうにも根が深そうであるな。
 ……引退を早まったとは思わぬが、中央の事情には今ひとつ疎くてな。
 宰相は手紙に書かれていた空賊の裏について、何か関わりを思いつくような情報は存ぜぬか?」
「今のところは。
 ただ、今回の騒動、中心が貴族院であろうとは想像に難くありませぬな。
 『アン・ド・カペー』殿ではなく『アンリエッタ・ド・トリステイン』姫殿下の危機についてと題し、アルビオンへの抗議とやらを出そうともしておりました。
 外務卿と二人、留めようとしておるところです」
「貴族院か……」
 貴族院は本来国王の求めに応じて内政、外交、経済、人事他、様々な内容について審議や調査を行い、意見を答申する諮問機関であった。だが国王不在の現体制下ではその権能を拡大解釈し、叙爵廃爵を含めた貴族家の管理、論功行賞だけでなく、政治面でも一言重きを置かれる組織として機能している。王政府と対立とまでは行かなくとも、利益の誘導という点では国家や王家とは乖離している部分が少なくない。
 特に王政府の人事面に於いては、横槍が入ることも珍しくなかった。掣肘できる者、つまりは国王が居ないことこそ増長の原因である。爵位や領地の扱いのみならば放置しておくところだが、小は新人官吏の採用から代官の登用、果ては王軍の人事にまで口を出してくる。マザリーニと王政府にとり、余計な気を使わざるを得ない相手でもあった。
「公爵、逮捕された三人について背後を調べるには、余りに時間が短きに過ぎますな。空賊についても同様。
 せめてセルフィーユ子爵について何か……この件で誰が得をするかなど、思い当たる相手は居られぬか?」
「個人については見当もつかぬが、総意としてならば、貴族院そのものが敵でも不思議はないな。
 ああ、無論全員が敵、とは言わぬぞ。
 あ奴自身が誰かの恨みを買っているなら先に私が知るはずだが、あ奴は私の義息でもある。
 姫殿下の危機に便乗してこちらに泥を塗りたいならば、大義名分には十分過ぎるな。
 当てこすりにしてはいささか乱暴な上に手が稚拙だが……そうか、空賊の背後とは別かもしれん」
「関連はないと?」
「うむ。
 空賊をけしかけたのが貴族院の誰かであるとすれば、宰相と話している時間はなかったと思うのだ。
 予め姫殿下が襲われると分かっていれば、私なら宰相をまず巻き込むぞ?
 王政府が思いのままになる機会を逃すはずもなし、物証ぐらいはでっちあげるな。
 ……それはともかく、このままあ奴を獄死させるようならラ・ヴァリエールの名に賭けてただでは済まさぬ。
 この件、落ち着いてから私の方でも少し調べてみよう」
「ふむ、国内の混乱はご勘弁願いたいものですな」
 聞きようによっては内乱の宣言とも取れる公爵の発言を、マザリーニはさらりと流した。
「ところで公爵、マリアンヌ様の手紙は今お持ちで?」
「うむ」
 セルフィーユ子爵曰く、切り札らしい書状。マザリーニはマリアンヌ直筆であることを確認し、二度読んでからラ・ヴァリエール公爵に向き直った。
「公爵、貴族院にはそちらから抗議をして貰ってよろしいだろうか?
 こちらはその時間を使い、人を遣わして……」
 マザリーニの言葉を遮るように、人払いにも関わらず扉が叩かれ、宰相と公爵は顔を見合わせた。無論、宰相麾下の官吏には、公爵と宰相の会談を相応の理由無く妨げるような愚か者は配されていない。
「ご歓談中失礼いたします。
 アンリエッタ殿下がお出でになりました」
 冷や汗を流した官吏が扉を開け、ラ・ヴァリエール公爵が外で待たせていたセルフィーユ子爵家の家臣アニエスを連れたアンリエッタが、笑顔で入室してきた。何事かとの疑問は表に出さず二人して跪く。
「お顔をお上げになって。
 宰相に相談があったのだけれど、入り口でアニエスが待っていたから驚いたわ。
 ……公爵がいらしているのにはもっと驚いたけれど」
 アンリエッタは背後にアニエスを従えて、場の空気などお構いなく余っていた椅子にちょこんと腰掛けた。
「宰相、公爵。
 リシャールにシュヴァリエの位を授けようと思うのだけれど、どうかしら?
 彼は先日、偽物のアルビオンの旗を掲げた空賊を退治したのよ。
 宰相、このことはご存じかしら?」
「……はい」
「わたくし、功績としては十分だと思いますの。
 でも、王政府の命令を受けて空賊の退治に参加したわけではなくて、それでもシュヴァリエに必須な従軍という条件に当てはまるのかどうか、宰相にお聞きしたかったのよ。
 ところで……アニエスがいるのに、リシャールもカトレア殿も居ないのはどういうわけなのかしら?」
 アンリエッタの背後では、アニエスが実に複雑な顔をしていた。リシャールの逮捕はまだ伝わっていなかったようである。
 公爵と宰相は、再び顔を見合わせた。

 しばらくして、一通りの事情を話し終えた三人を前に、アンリエッタは重苦しい表情をしていた。
「どうしてリシャールが逮捕されなくてはいけないのか、わたくし、理解に苦しみますわ。
 ……それともこれが、彼が口にした『セルフィーユ家の名誉』の正体?」
「……セルフィーユ子爵は姫殿下に何か申しておりましたか?」
「ええ、彼は言っていたわ。
 ひと月ふた月してから宰相に顛末を尋ねるようにと。
 それが活かされるなら、それこそが『セルフィーユ家の名誉』だと」
 公爵は腕を組み直してソファに深々と身を沈め、宰相は丁寧な仕草で聖印を切った。
「あ奴、見越しておったのであろうか……」
「さて、それは分かりませぬが……功には賞を以て報いるべきかと私などは思いもしますが、世の常はそうではないらしい。
 これを『セルフィーユ家の名誉』とするには些か結末が不快ですな」
「宰相にそう評されるとは、それこそ『セルフィーユ家の名誉』かも知れぬが……」
 ふむ、と宰相がため息をつき、広げられた書類をとんと揃えた。
「セルフィーユ子爵にはまた一つ無理を願おうかと思っておった矢先、困ったものです」
「……あまりあ奴を便利使いせんで貰いたいものだな。
 何故かリシャールは宰相を高く評価しておるが、それでも限度はあろう?
 特にあの街道工事、セルフィーユ家がいつ傾いても不思議ではないのだぞ。
 今などは、クルデンホルフから金を借りてやりくりしておるそうだ」
「まあ! ……アニエスは知っていて?」
「……口に出すのは憚ります」
「お願い、教えてくださらないかしら?
 わたくし、リシャールには迷惑を掛けてばかりで……」
「アニエス、であったな。
 家臣としてリシャールに遠慮する気持ちは分かるが構わぬ、姫殿下の御下問だ。
 ……私も知りたいのだ。
 あ奴、多少の苦労は黙って背負い込むたちでな、なかなか泣き言を言わぬので困っておる」
 アニエスは主君の恥を晒すことになるのか迷いながらも、この場にいる自分以外の三人が立場上逆らって良い相手ではなく、また主君に悪意を持った人々でないことだけは理解できていたので、多少は逡巡したものの結局は飾らずに答えた。
「私は城の衛兵隊の勤務でありますので、詳しいことまでは存じ上げません。
 ですが、領主様が金策に苦労しておられることは知っております。
 庁舎での執務を終えてのご帰城後、夜遅くまで鍛冶場に篭もられる事は日常であります。
 出来上がった武器防具は、私なども含め領軍の兵士や聖堂騎士隊に下賜される物もありますが、大半は城下の店で気長に売られるか、在庫が多いようならば、兵士が荷馬車で王都へと売りに行きます」
「それほどなのですか!?」
「……領地を持つ子爵の暮らし振りとは思えぬな。
 宰相、敢えて聞くが、この上宰相はあ奴に何をさせようとしていたのだ?」
 内容によってはただでは済まさぬと表情に出して、公爵はマザリーニに問いただした。
「セルフィーユ周辺にある王領、そのうちの三領をセルフィーユ子爵領に組み入れたいと検討しておりました。
 地代の納付年限を定めぬものとするか、折り合いがつかねば無償の下賜でもよろしかろうと、あれこれ下準備をしておった矢先でしてな」
 悪びれもせず答えたマザリーニは、アンリエッタに一礼してから公爵を見据えた。
「……そこだけ聞けば大変な栄誉である上にリシャールにとっても一方的な実利でありそうだが、宰相の考えること、そう単純なものではあるまい。
 王政府にどのような利得があるのだ?」
「……姫殿下、公爵、他言は無用に願えますかな。
 アニエス、無論君もだ」
「誓います」
「承知した」
「誰にも言いませんわ」
 三人の返事を聞いてから、マザリーニは口を開いた。
「王政府の実状は、セルフィーユ家と大して変わるものではないのです。
 ……そう申し上げますと、ご理解いただけますかな?
 金策に王領の切り売りを行い、街道工事の代わりに空賊の討伐や園遊会の開催があり……セルフィーユ家とどこがどう違うのか、説明に苦慮いたすほどです」
「……そこまで酷いのですか?」
「はい」
 アンリエッタの遠慮がちな問いに、マザリーニは重々しく頷いた。
「私もですな、セルフィーユ家の経済状態は多少ならず知っておりますとも。
 故に可能ならば領地は完全な下賜とし、代わりに国境警備の責務を以て代価に充てるつもりでおったのです」
「ふん、王政府の丸損とは言わぬが、三領もの下賜に見合うとはとても思えぬな。
 そこのところはどうなのだ?」
 公爵のラ・ヴァリエール領も隣国ゲルマニアと国境を接し、代々国境警備の責務を担っている。国境警備の部隊を組織して維持運営する負担は決して軽いものではないが、領地の下賜に釣り合う重さではない。
 そのことを知ってか知らずか、やるせない顔でマザリーニは頷いた。
「三領合算しての総収入が、その維持に必要な三人の代官と下働きの給与、そこに国境警備の兵士たちの駐留費用を加えた合計を随分と下回っております。
 つまりは、押しつけるだけで王政府は赤字を減らせるわけですな」
「酷い話だ。
 ……それでもなお、あ奴に領地を押しつけると?」
「常の諸侯ならば、と注釈がつきますな。
 公爵はご存じですかな?
 セルフィーユ子爵が、昨年の一年で王政府に納める税を五倍に伸ばされたことを」
 マザリーニの視線を受け、公爵は無言で首肯した。
「新たに三領を得て同様に五倍の税を納めよ、とまでは申しませぬ。
 されど代官に任せて絞られるだけであった領地が、国庫に納められる税額の伸長と更には土地そのものの開発が見込めるとすれば、無償で下賜を行ってでもこれは譲り渡さぬ方が愚かというもの。
 それは王政府にて手の回らぬ土地を諸侯に委ねて育て上げさせ、国力の充足に繋げるという領地下賜の大前提を十二分に満たすことになりましょうや?
 王領という名にこだわる余裕も、維持の為に費やす予算も、既に足りませぬ。
 それに国境警備の負担ですが、セルフィーユ子爵に限っては書類を書いて右から左に動かすだけで相殺されますのでな」
「何?」
「子爵は既に常設の領軍を組織され、更に今年は領空海軍を創設されるとのこと。
 下賜する予定であった三領の国境警備に割り当てが求められておるのは関所の詰め所なども含めて約百名でしてな。
 関所や見張りの砦に不都合のない配置換えさえ為されるなら、新たに兵士を増やす必要はないのです。
 他の貴族からのやっかみや批判さえ回避できるならば、今日今すぐにでもマリアンヌ様のご裁可を頂戴しに走り出したいところですぞ。
 ……それもこれも、セルフィーユ子爵が西の塔より出てからの話になってしまいましたがな」
 誰とも知れないため息が、深く静かにその場を流れた。

 その後も数刻に渡って話し合いが続けられた。
 貴族院を押さえ、事件そのものを無かったことに出来ないかどうかが議論の焦点であった。今ならばまだ、多少の混乱と言い繕うことも出来る可能性がある。
 合間に続々と届く逮捕者の資料や情報を慎重に検討しながら、意見を交わし積み重ねて行く。
「……貴族院の腰がこれほど軽かったとは、寡聞にして存じませんでしたな」
「セルフィーユ領の地代に十五万だと!?
 既に我が物と勝手な値引きまでするか!
 第一、あの地を受け継ぐは我が孫マリーぞ!!」
「ああ、わたくしが襲われると、貴族院の議員は懐が潤いますのね……」
 呆れたことに、駐アルビオン大使の後任人事は既に決まっていた。空海軍のシャティヨン艦隊も解散命令が下り、代わって新たな艦隊が創設されると発表されているという。いつぞやの特使任命に比べ随分と素早いものであると、マザリーニはため息をついた。
 次いでセルフィーユ領の売買が早くも内示され既に仮の買い手がついたと知らされたが、この時の公爵の怒りは凄まじいものだった。リシャールが買い取った価格の半額近い値付けが、公爵の怒りに更なる油をそそいでいる。ついでに、個々の金額までは追えなかったが、相当な額が根回しとして貴族同士の間で動いたようだと小者は告げていた。
 公爵への当てつけという範疇を超えた、利権の奪い合いのためにアンリエッタの襲撃事件を利用したとしか思えない続報に、アンリエッタは情けなさのあまり半泣きとなっていた。
 その他にも、動きが素早かったのは、襲撃を受けたにも関わらずアンリエッタが無事であったというラ・ロシェール発の情報が王政府よりもかなり早く貴族院に知らされていたこと、高等法院に逮捕状を出させるために必要な不逮捕特権を停止する認可状の発行が僅か半刻程度で為されたことなどが知らされた。
「アンリエッタ様には、あくまでもアルビオンに行っていないと言う態度を取って戴かなくてはなりませぬ。
 しかし、それが表向きの態度であるということも、同時に議員達には分からせなくてはなりませぬぞ。
 でなければ、面子のぶつけ合いになって余計に収拾がつかなくなってしまいますのでな」
「わたくしに出来るかしら?」
「大丈夫、物わかりが悪いようなら、後ほど個別に話を聞くと言ってやるのも手です。
 姫殿下、ご心配なら私も同席しましょう」
「……むしろ個別に呼びたいのは公爵、あなたの方でありましょうに」
「まあ! そうなのですか、公爵?」
「否定は致しませぬ」
「……それについて、この件で怒っているのはセルフィーユ子爵ではなく、そこな義父殿であるとした方が良いでしょうな。……実際、お怒りではありますが」
「ふん!」
「アンリエッタ様、このからくりはご理解いただけますかな?」
「ええっと……リシャールが怒るよりも、公爵が怒っている方がみんな恐いからかしら?」
「……表現はともかく、そのお答えは見事に本質を突いておられますな。概ね正解です。
 正確にはこの問題について、セルフィーユ家よりも各方面に対し明らかに影響力の大きいラ・ヴァリエール家が主体であると、議員達に錯覚させるのです。
 無論、公爵がこの場にいらっしゃるからこその離れ業ですかな」
 宰相と公爵が揃って訝しんだことに、アンリエッタは重苦しいその話し合いにずっとつき合っている。驚くべき事に、彼女は時折口を挟んでは意見を述べたり疑問を問い質してきた。これまでの彼女からは考えられないような椿事であるが、これぞ僥倖、いや成長かと、宰相は内心で笑みを浮かべていた。
 茶杯の入れ替えを小者に命じること数度、宰相は再びの来客を執務室に迎えることになった。セルフィーユ子爵夫人カトレアを従えたマリアンヌ王后が、彼らを訪ねてきたのである。
「精が出るわね、アンリエッタ。宰相も公爵もご苦労様」
「失礼いたします」
「お母様! それにカトレア殿も!?」
「マリアンヌ様!?
 おお、それにカトレア! リシャールを心配して来たのか? マリーはどうしたのだ?」
「マリーは控え室に。乳母達に預けてありますわ。
 それよりも……」
 カトレアは一歩横にずれて、扉への道を空けた。
「アンリエッタ、今から大事な会議がありますから、貴女も一緒に来なさい。
 ああ宰相、貴方もいらして」
「会議!? 会議ですと?」
 王后が自ら政治に関わろうとするなど、マザリーニにとっては青天の霹靂であった。先王の崩御以来、表舞台に出ることを拒否し続けてきたマリアンヌなのだ。
「あなた方はしばらくここでお待ちになっていてね。
 大丈夫、悪いようにはならないから」
「お、お母様!?」
「お待ち下され、マリアンヌ様!」
 マリアンヌに引きずられるようにして出ていく二人を見送った残りの三人は、とりあえず顔を見合わせた。
「アニエスもお疲れさま。
 ラ・ヴァリエールまでの強行軍は大変だったでしょう?」
「いえ、大丈夫です。
 それに王都までは公爵様の竜篭に同乗させていただきましたので」
「……カトレアよ、マリアンヌ様は何をなさろうとしておいでなのだ?」
「わかりません、お父様。
 でも、わたしに宛てられたリシャールからの手紙をお見せしたら、『大丈夫よ』と仰って肩を抱いて下さいました。
 その後すぐ、貴族院の召集をお命じになられましたのよ」
「実に今更だが、カリーヌも連れてくるべきだったかもしれぬな……」
 公爵は額に手を当て、大きくため息をついた。
 今でこそ、物腰の落ち着いた様子を貴婦人の鏡として社交界で称えられるマリアンヌ王后だが、娘時代には『烈風』カリンを引っ張り回し、たった一人でトリスタニア市中を混乱に陥れるほどのお転婆娘であったことを、公爵は嫌と言うほど知っていた。







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