――私は早く大人になりたい。だって、そうすれば……。





「なんであんなのでリタイアになるのよ」

 紫穂は、舌打ちをするとコントローラーを放り出した。
 恨めしげに睨む液晶画面は、黒煙を上げる車を残し、暗転していく。
 「おかしいわ、こんなの」呟きながら、ゲーム機本体のリセットボタンを押す。
 画面から目を離し、コントローラーを拾いながらチラリと横目で時計を見る。短針と長針は、一一時直前を指していた。
 ――まだ帰ってこない。
 洗い髪もすっかり冷えた。ソファーで彼女のプレイを見ながらおしゃべりしていた薫と葵はとうにグッスリ、夢の世界。
 かといって、親友二人が少数派なわけではなく、夜の一一時はようやく五年生になったばかりの小学生にとって、起きているには遅い時間である。
 だが、紫穂はまだ眠る気にはなれない。
 表示されたデモ画面をカットし、タイトル画面の表示すら許さずボタンを連打する。

「遅いわね」

 再びロードに入ったゲーム機に、ため息を洩らしたその時だった。
 ガチャリ。
 玄関から、ドアが開く音、そして声が小さいところを見ると返事を期待しないただの習慣としての言葉なのだろう、「ただいま」という声がした。
 紫穂の心臓が一つ、大きく弾んだ。

「帰ってきた」

 落ちかけたコントローラーを取り直し、思わず口に出す。一瞬、立ち上がりかけたが、腰をおろすとコントローラーを持ちなおした。
 ――散々待たせたんだから、最後ぐらいはこっちが待ったって良いわよね。
 足音が近づいてくる。重なるように少しずつ、紫穂の心臓の音が大きく、早くなっていく。
 が、

「またか。何時まで起きてるんだ」

 ドアを開け、自分が起きているのを見つけた彼の第一声はお小言だった。
 なによ、それ。
 腹立たしかったので、振り向きもせずにした返事は、投げやりな口調だった。

「なぜか眠くないの」
「明日、また起きるの遅くなるぞ」

 更に続きそうなお小言の気配に、ゲーム機の電源を切って立ち上がる。
 コートを脱ぐ皆本に近づくと、アルコールの甘い匂。自分が待っていた間、お酒を飲んでいたのかと思うと、余計に腹立たしくなってくる。なので、少しイジメてやることにした。
 
「お酒、飲んできたんだ」
「ああ、少しだけね。ビールとワイン。あと、焼酎もかな?」
 
 指折り答える彼の泥酔した姿を、紫穂は見たことはない。
 一度、酒瓶で人を小突くところを見たことはあるが、それも酒に飲まれたというよりはその場の不都合な話題(結局、皆が知ることになったのだが)を打ちきるためだった。
 量を飲まないのか、それとも案外強いのか。
 むしろ介抱する側で、一度、酔い潰れた紫穂の大キライなお医者様を連れて帰ってきて、大層イヤな思いをしたこともある。
 そんな彼も、アルコールの影響を全く受けないということはないらしく、今夜はいつもより少しだけ饒舌だ。

「誰と飲んできたの? 女の人?」
「一人か二人ぐらいはいたかな?」
「……誰?」
「ただの飲み会だよ。開発の人達とね」

 皆本は、眉間に皺を寄せた紫穂のESPリミッターを嵌めた指を軽くチョンと叩く。
 いつもの彼とは異なる軽い態度が癪に触り、反撃してやることにした。

「なあんだ、つまんない。明日、二人にチクってやろうと思ってたのに」
「お前なあ」

 呆れたように首をすくめた皆本がおかしくて、ついクスリと笑ってしまった。
 それでお終いだった。
 お小言への仕返しも、不機嫌も、笑ってしまっては全部お終い。
 だから、紫穂は自分のことを話すことにした。

「今日ね、学校でね――」
 
 誰かに話そうと思えば、日常の中にも話すことは結構色々あるものらしい。友達のこと、教師のこと、帰りに見かけた猫のこと、お喋りは止まらない。それを聞く皆本は、普段より幾分トロッとした目をしている。が、自分の話は聞いてくれているようで、相槌を打ち、時折質問を返してくる。紫穂はそれが嬉しくて、二人だけの時間を惜しむかのように、今度は皆本に話をせがむ。
 アルコールのせいか、少しだけ気だるそうな表情を見せた後、まずは紫穂の大キライなお医者様の失敗談から聞かせてくれた。
 既に夢の世界に入った二人への甘い罪悪感を秘めた、自分のことを話し彼のことを聞くことのできる、二人だけの時間。
 そんな時間もすぐに終わってしまう。
 宵っ張りとはいえ、紫穂もまだ十歳。
 時計の針と重くなる瞼には逆らえない。
 意識が途切れ途切れになり、うつらうつらし始めた紫穂の体が持ちあがった。

「さ、寝るぞ」
「……ん、うん」

 皆本の背中の上で、心地よく名残惜しく、意識を手放しながら紫穂は思う。
 早く大人になりたい、と。
 そうすればこの時間を長く味わうことが出来るのだから。
 

 おしまい