「顔を上げて」

 彼女のかけた声に、少女がゆっくりと顔を上げる。
 少女が座る椅子の前、洗面台の鏡に映ったのは、一片の感情も宿さない空虚な瞳。
 しばし鏡の中の少女を見つめた後、彼女は台に置かれたトレーから鋏を手に取り、少女の前髪を軽く摘む。

「これぐらい、か」

 髪を切る。
 同年代に比べれば、身なりに気を使わないタイプだった彼女には、経験のない行為だ。ましてや人の髪を切るのだ。緊張は隠せない。
 鋏を下ろし、一つ息をつく。かといって、いつまでも躊躇っているわけにもいかない。思い切って、髪に当てた鋏に力を込める。
 シャキン。
 軽い音を立てて“ふゆほたる”の色素の薄い髪が、被せた水色のシートを擦って、“なみえ”の足下に散らばった。
 始めてしまえば、手は苦も無く動いてくれた。ショートカットにするのだから、ある程度まではさして神経を使うようなものではないという気楽さも手伝って、緊張は髪が落ちるごとに晴れていく。
 気が少し緩んだからだろうか。“なみえ”がふと思い浮かべたのは、血色の悪い顔で歪めた笑みを絶やさない青年のことだった。












「思いの外、元気そうで安心したよ」

 看護士と医者を別にすれば、覚醒して“なみえ”が最初に会ったのは、土師圭吾だった。
 衰弱し、思考することすら億劫だった彼女に、彼は一人で現況を喋ってくれた。
 父親である高鍬雷は、現在尋問中であること。東中央支部が体制の見直しを迫られるであろうこと。そして、その役目を自分が押しつけられたこと。“なみえ”が五号指定に降格されたこと。
 父親の失脚も、東中央支部の現状も、自らの今後も、酷く重たく曖昧とした“なみえ”の心を動かすことはなく、どっちともつかない灰色として沈んでいく。
 ああ、そうか。
 どの判断も妥当なように思えたし、その程度の漠然とした言葉しかでてこなかった。
 考えることで、淡々とした事実を自分の中で確かなものとしてしまうのが怖いのだろうか?
 そんな疑問すら、彼女になんの感情も呼び起こさなかった。

「ああ、そうそう」
 
 青年は、皮肉気な笑みを崩さないまま付け加えた。

「“ふゆほたる”は欠落者になったよ」

 予想できたことだった。
 “なみえ”と遭遇した時点で、“ふゆほたる”は意思があったとはいえ、かなり消耗していた。冷静に考えてみれば、あのまま彼女が逃げ仰せたとは思えないし、仮に逃げ仰せたとしたのなら、東中央支部の支部長になったという彼が、自分などを見舞っている余裕などもあるまい。だから、土師圭吾の告げる事実は、なんら意外なものではない。
 それでも、“なみえ”の胸は酷く痛んだ。
 灰色の中に一滴垂らされた白い記憶。
 助けを求めていた儚い少女。
 自分が排除しようとした少女。
 自分の夢をりっぱと言ってくれた少女。
 理性がどう判断しようと、感情ではその少女が欠落者になったことを信じたくはなかった。

「君も知っているだろう? “GARDEN”で、彼女を管理することになったよ。なにせ、初めての一号指定の欠落者だからね。
 ふふっ、一体、どうしていいものやら」

 管理という言葉が乾いた響きをもって“なみえ”の耳を打った。

「おや、降ってきたようだね」

 言葉につられて、ぎこちなく首を巡らすと、窓の外では灰色の空から重力と風に遊ばれて、真っ白な雪が舞っていた。素直に、綺麗だと思えた。そして、思い出す。
 あの時も、雪が降っていた、と。

「積もると危ないな」

 土師がやや眉を顰める。
 腕のいい運転手じゃないからね、片頬を歪ませて言うと、彼は立ち上がり、コートを羽織り、部屋から出ようとした。

「……待ってくれないか」

 彼女が自分から初めて発した言葉に、土師は立ち止まると、興味深そうに眼鏡の奥の目を細めた。











 作業が終わりにさしかかれば、余計なことを考える余裕もなくなった。僅かに髪を切り、落とす度にバランスを鏡で確認し、調整していく。
 鋏の音が止んだ。
 鏡と“ふゆほたる”を交互に見る、長い静寂の後、“なみえ”が呟く。
 
「ここまで……だな」

 鋏を置く。
 作業を終えた瞬間に訪れたのは、達成感ではなく、虚しさだった。













 欠落者用隔離施設“GARDEN”。
 そこに“ふゆほたる”の監視者として“なみえ”が来てから、既に一ヶ月が過ぎようとしていた。
 その間、監視者として提出が義務づけられた報告書の最後の一文は不変だった。
 異常なし。
 “なみえ”以外の誰が監視者であったとしても変わらなかっただろう。
 異常など起こりようがないのだ。彼女は、意思を持たない欠落者なのだから。
 日が昇れば同年代の欠落者に混じって登校し、暮れれば同じ道を通り帰宅する。夜、消灯する時間も誤差といえる程度の僅かな差しかない。
 決まりきった一日を、指示通りに淡々と過ごしていく。それが“ふゆほたる”だけではなく、極一部の研究者達を除いた“GARDEN”の営みであった。
 着任後、待っていたのは平坦な毎日だった。
 予定調和で無彩色の時間が、ただ重たく流れていく。
 一号指定だからといって、“ふゆほたる”が他の欠落者と異なる点はなかった。
 “ふゆほたる”単独としてみても、その毎日はルーティンワークをはみ出すことはない。長いスパンで見れば十代前半の少女であるし、身体の変化も見られただろうが、“なみえ”が監視し始めてからの短期間ではそれも見取ることはできなかった。
ただ一点、頭髪を除けば。
 “ふゆほたる”の散髪をしていいか。
 管理者にそう問うと返ってきたのは、畏怖の混じった訝し気な視線と、許可だった。
 髪が長くては動きにくいだろう。
 そんな単純な思いつきだった。










 鏡に映し出される“ふゆほたる”の髪は、勿論、本職の美容師などとは比べものにならないが、バランスが悪いようには見えない。ショートカットにした髪型も可愛らしい顔立ちに似合っていたし、初めてとしては上出来と言えるだろう。
 しかし、“なみえ”の心中には、後悔と疑問しか生まれない。
 彼女は、どうしたかったのだろう?
 彼女の髪は長かった。それは単に伸びただけだったのだろうか? それとも、何か思いがあって伸ばしていたのだろうか?
 “なみえ”はなにも知らない。知りようがない。
 髪が長くて動きにくいだろう。

「ただの、私の……思いこみじゃないか」

 呻く鏡の中の自分は、ただ表情を歪ませている。
 そう、ただの思いこみに過ぎない。
 彼女は助けなんて求めない。何も望まない。彼女を守るという誓いですら、彼女はなにも思わない。どんな事実も彼女には意味を持たない。彼女は、雪を見ない。

「おしまいだ。立って……戻るんだ」

 ゆっくりと“ふゆほたる”が立ち上がり、部屋から出ていく。
 自分に何ができるだろうか。
 一人になった部屋の中、“なみえ”は思う。答えはすぐに出る。
 何もできないだろう。
 彼女に“ふゆほたる”を“欠落者”を救うことはできない。そんな知識はない。
 だから、“なみえ”は、高鍬みのりは、再び誓う。
 せめて、いつの日か彼女が現に戻るその日を信じて、彼女の側にあろう。杏本詩歌という少女を守ろう。
 そして、いつか。もし望めるのなら――










 夏とはいえ、深い山の中となれば、夜気は肌寒い。任務を終え帰還したアイジスパからの報告を受けて、“なみえ”は軽く腕をすりながら自分に与えられた寝床へと戻ろうとしていた。
 道すがら、一軒一軒コテージの灯りを確認していく。点いていれば眠らせる。
 光が漏れていたのは一軒だけだった。
 誰のコテージか理解すると、“なみえ”は一つ嘆息した。
 扉を開くと、電気を付けたままテーブルの上で、詩歌が突っ伏して眠っていた。

「やっぱりか」

 予定よりも帰還時間の遅れたアイジスパを待つと言っていたが、昼間の訓練疲れもあって力尽きてしまったというところだろう。眠気覚ましを期待されていたであろうコーヒーは、飲みかけのまま、すっかり冷えきっている。
 寝室に向かい、毛布を取って来る。
 そっと毛布を詩歌にかける。穏やかな寝顔につられて、起こさないように静かに髪を撫でる。

「だいぶ、伸びたな」

 髪を伸ばしたままにするのか、それとも切るのか。明日、聞いてみよう。
 彼女はきっとどうしたいか話してくれるだろう。
 いつか望んだように。


 終